爆音のひと
この金沢市において、BAND活動をしている方や音楽業界に携わる方々の中でこの男の存在を知らない者はいないと言っても過言ではない。アマチュアバンドのライブPAで「爆音のひと」と言えば真っ先に名前が上がり、音響現場では「あの大きなひと」と言えば彼を指名したも同然だ。184cmという長身でガタイも良く、どこからどう見ても規格外の彼はその風貌からは想像もつかないほど仕事を綿密に、そして繊細にこなす。
THE 清水 聖一
10月13日生まれ、B型だが「よく、でかしみさんA型ですよねって言われるんですよ」と本人が言うように、広く一般的なB型の特徴として挙げられる「自分が一番」「わがまま」「マイペース」という性格は、彼の外側からは見えない。基本的には周りの時間に合わせ、周りの声に耳を傾け、多少の無理難題は叶えようと努めてくれる「いいひと」だ。しかしその実態は、自分の理想を追う性格ゆえに妥協のできない「わがままさ」が見事要領の悪さにつながり、時間に追われっぱなしの人生を送っている「運のわるいひと」でもある。
中学生の頃は喫茶店に入り浸り、高校生の頃はカメラとベースに夢中だった。彼が初めて楽器に触れたのは父親の所有するクラシックギターだったが、音楽という分野に目覚めたのはNHKの「ヤング・ミュージック・ショー」で1977年、日本武道館にて行われた「KISS」の初来日公演を観たからだと言う。KISSが日本でコンサートさえしなければ、彼は「普通の人生」を歩み、いま頃は社会貢献のひとつでもしていたかもしれない。
「金は “ある” だけ使うんじゃない、”要る” だけ使うんだ」というのが彼の原点であり、また、彼の哲学でもある。「高校卒業する頃にはすでに200万の借金抱えてたからね(笑)」と彼は涼しい顔で言ってのけた。事実、彼は金などなくとも必要な時に欲しいものを手に入れる、いわば錬金術的な何かに長けていた。新聞配達をして得たバイト代を楽器とカメラに注ぎ込むという努力家でもある一方で、行き付けのカメラ屋に高校生という身分で「買掛口座」を持つという破天荒ぶりをも発揮していた。カメラ屋のオーナーもまた破天荒な人物であったのかもしれないが、高校生にして他人の信用を得られる彼の圧倒的な存在感には目を見張るものがあった。
進学校に行きながらなぜ大学に進学しなかったのかと訊ねると「ああ、借金返してからにしようと思って」と、普通の高校生なら思いもつかない理由で以て、18歳の彼は大学進学を「延期」し、夜の喫茶店で働くようになった。
ベースとカメラとバイクと車
KISSに魅せられベースを弾き、カメラの複雑な美しさに(ここで重要なのは写真ではなくカメラという部分である)夢中になった彼は、次にバイクの造形美に心を奪われて行く。初めて乗ったバイクはスズキのGSX400FW。バイクに乗ること自体は面白かったが、それよりもバイクを「いじる」ほうが楽しかったと言う。「元々がバイクに乗りたいというよりバイクの存在の美しさに心を惹かれたから、バイクという手段を選んだんだよね」という彼は、次に車の改造に心血を注ぐようになる。こどもの頃からフェアレディZとポルシェ911に憧れていた彼は、フェアレディZを手に入れゼロヨンに目覚めるが、ここでもやはり車屋に就職し、車を「いじる」ほうへとシフトして行くのだった。
ホンダツインカムで車のチューニングに勤しみ、一時期はF2(Formula 2)のピットクルーとして働いていた彼はなぜ「音」の世界に鞍替えをしたのだろうか。
PAするなら爆音出せよ
彼が「音」の世界に足を踏み入れた理由は実に単純明快なものだった。その日、観客としてとあるライブハウスにいた彼は、客席で「音、ショボくない?」と感じたという。それだけだった。「機材があるならもっと大きな音出せばいいじゃない」という非常にわかりやすい彼論理で以て、「他人が出せないなら俺が出す」と、彼はPAの道を歩き始めるのだった。
「音楽的な感覚はまあ持ってたんだろうけど、音楽を伝えるということをこの道具(機材)を使って成立させるにはどうであるべき、っていう風に自分で組み立てて覚えて行ったからね」
誰かに教えを請うたわけでもなく、自らの感覚のみで試行錯誤を繰り返し「爆音のでかしみさん」は爆誕した。かつて故岡本太郎氏が「芸術は爆発だ」という名言を残したが、アーティストと呼ばれる人間は爆ぜることに正解を見出すのだろう。
チャーリーランド
金沢にもいくつかバンドの練習スタジオはあったが、彼が寺町にある「チャーリーランド」の顔となったことにも特別な理由は何ひとつなかった。当時そこで勤めていたひとが辞めることになり、自分の代わりを探していたところ、たまたま彼に話がふられた、それだけだった。
見た目とは裏腹な人当たりの良さ、面倒見の良さから「兄貴的存在」として彼は多くのひとたちを魅了して行く。女の子を見るとまず「いつデートしてくれるの?」と訊くのは、彼にイタリアの血が流れているからなのか、それとも心底女好きだっただけなのかは謎のままである。
どうせやるなら練習もライブもレコーディングもできるスタジオにしよう、とチャーリーランドは一新され、彼は隣にある金魚屋のおばあちゃんと戦いながらアマチュアバンド界を盛り上げた。地下のライブスペースでPAとしての技術を磨き、1Fのミキシングルームでレコーディングエンジニアとしてのスキルも身に着けて行った彼は、やがて「音響業界」に乗り出すこととなる。
人類庶務課
小さな式典から、ディナーショー、夏の野外ライブ、学園祭、大規模コンサートなどを手掛ける一方、「音楽を伝える方法」を模索しながら、彼はエンクロージャーの制作にも携わって行くこととなる。もう何屋さんなのかわからない状態はずっと昔から変わらない。チャーリーランドを辞めたのち、自分のスタジオをまさに言葉通り自分で「造った」ことからも、なんでも屋であることを窺わせる。スタジオを設立したのではなく、何もないビルの一室を自身で大改造し、防音工事を施した練習スタジオとレコーディング用のミキシングルームを造り上げた。ここまで来るともう「大工」の域だろう。
彼の「なんでも屋」街道はその程度では終わらない。自転車のパンク修理や車のフェンダーの修理、電話機の交換やウォシュレット付き便座の交換をしたかと思えば、ライブのフライヤーを制作しwebサイトを制作する。日本には「器用貧乏」という言葉があるが、これは彼のために作られたのではないかと思わざるを得ない。
FUJI ROCK FESTIVALやSUMMER SONIC、りんご音楽祭のPAに携わり、Jody Watleyの来日コンサートのモニターオペレーションなど、「ちゃんとした仕事」をしているとは思えないなんでも屋っぷりに「でかしみさんて何屋さんなの?」という疑問を抱くひとも多く、そう問われると彼は「僕は人類庶務課です」と非常に的を射た答えを用意している。もし水周りのトラブルで困っているひとがいるのなら、まずは彼に連絡をしてみるべきだろう。
清水 聖一という存在
「人類庶務課」に属するなんでも屋である彼にはベーシストとしての一面も残されている。無論、彼を一般的なベーシストとして評価することは、日本での公用語を英語にせよというレベルで難しい。技術的に優れているかと言えば、彼よりテクニックに長けたベーシストは星の数ほどいるだろう。しかしそれは当たり前なのだ。彼は「技術を磨いて上手なベーシストとしての頂点」を目指してはいないのだから。
かつて新聞配達に勤しみそのバイト代以上をカメラに費やし、高校生ながら200万の負債を抱え、PAはすべて現場で独自の創意工夫をもって叩き上げ、「あるだけ」ではなく「要るだけ」金を使う彼のことだ。本気でテクニックを追求するのであれば容赦なくそのスキルを磨いただろう。しかし彼はそれをしない。できないのではなく「しない」のだ。
では彼はベーシストとして何処を目指しているのだろうか。
その問に対する答えは訊く必要がなかった。彼は「何者」かになりたいわけではなく、エンジニアであり、オペレーターであり、奏者であり、演者であり、大工であり、配管工であり、左官屋であり、デザイナーであり、料理研究家でもある「清水 聖一」という存在そのものなのだ。そうでなければライブでベースをガンガン叩き音を出し「ベースは打楽器だ」という言葉など出てくるはずもないし、「大学進学はまだ延期中」などという浮世離れした言葉も出て来たりはしないだろう。
今後の「清水 聖一」がどう変化して行くのか、できれば大人しくしていてもらいたいと願うひとも多いだろうが、面白おかしく観察して行きたい。
(Interview&Writing : Shio Makino)